理不人

ずいぶん昔の話です。
阪急電車・(京都)四条大宮駅へ向かう横断歩道を渡った直後、小柄なニイちゃんに「~~~の署名お願いします」と用紙を突き出されたんですよ。
その「~~~」が何だったのかもはっきり覚えていないのですが、たぶん「戦争反対」とか「核兵器廃絶」とかそういうのだったと思います。
私が「イヤです」と応えたら、そのニイちゃんは「なぜですか、理由を言ってください」と言うんですね。それに対してオレはこう言いました。
「オマエが嫌いだからだ」
いやぁひどい言い方ですね。このとき私は学生でしたから20歳前後なんですけども、まるでオトナゲ無い、これじゃ子供のケンカです。
署名を拒否したホントの理由は大阪・梅田行きの電車に乗り遅れたくなかったからなんですけども、「オマエが嫌い」というのもホントでした。“署名するのが当然だろ”的な態度でオレに対してきて、拒否したら「理由を言え」とはどうなんだっつーことですよ。

「戦争反対」、「核兵器廃絶」、「人命尊重」、「自然保護」などの主張は、それだけを取り上げればどう見ても正論です。そのような趣旨をかざして署名を求められればある種の威圧を感じるものです。もしも署名しなかったらそれらに反する思考を持つ人だととられかねないのではと思ってしまいますからね。しかし、署名を求められた私は、その活動をしている団体(あるいは個人)をまったく知らないわけで、「~~~の署名お願いします」と言われても、その「~~~」という主張に至った理由がわからないのですよ。理由のわからない団体や個人の趣旨に「~~~」だけで賛同し、それをもって何らかの書類に自署することなんて出来ませんから署名を拒否するのは当然のことです。
(街頭での署名活動の場合は活動内容や論旨が書かれたプラカードがあったりビラ配りがなされていたりしますが、オレの方はそんなものをいちいち読む義理はないですからね。)

たとえばですよ、「戦争反対」という趣旨は大多数の人間が賛同するところでありましょうよ。人間同士が殺傷しあうことに反対するのは当然のことです。でもですよ、人間は何千年という歴史を重ねてきても戦争を無くしてしまうことは出来ていませんわなぁ。人間のほぼ全体が賛同するような趣旨であっても、国や民族や、ときには個人の理由において“戦争やむなし”との判断に至るからですね。
で、私ね、少々不穏なことを言いますが、上記の件は正しいのではないかと思うのよ。
人類全体にとっての正論であっても国・民族・個人の理由によってそれを覆してしまうことがあるのを認めるっていうことです。言い方を変えれば、私は、戦争には反対だし核兵器は廃絶したいし人命は尊重しているつもりだし自然の保護は大事だと思うけれど、それでも、それらすべてに賛同している他の人たちと大同団結するつもりはないっていうことです。
私には私の理由があって、それは、私自身にとって、人類全体の総意よりも重いんですよ。
だから、最初に書いた署名拒否の件でも、その署名活動をしている団体の見解全体に同意できたとしても「オマエが嫌いだ」という理由ひとつで署名を拒否してもいい、という粗暴な考え方です。
哲学や倫理学という、人間の理性によって疑問・問題を解決しようとする試みは人の意識のごく初期に発生したのでしょうし、そしてこれまでに延々と考えられてきました。しかし、私思うんですよ、人の人としての特色は理性じゃない部分にあるんじゃないかと。

『音触』から始まったこのシリーズの主題は「歌・音楽の本来は何なのか」でありますが、この、歌・音楽を聴いて“感ずる”ところのものは理性じゃない部分なのではないかと思っているんです。歌・音楽が人間の奥底から引きずり出してくる理性じゃない部分は他の表現手段より加工度が少ない状態であることが出来るわけで、だからこそ、歌・音楽の可能性の大きさ深さを信じられると考えています。
これまで「自らの理由」についてしつこく書いてきましたけども、この理由っていうのは実は理性に基づいたものではなくて、理性から外れたものではないかと、理性から外れているからこそのものではないかと、やたら理不尽なものではないかと、そんな気がします。だからこそ、自分は自分でいられるのではなかろうか。そうであってこそ他を他として認め、この世界を“自ら”の集合体として認められるのではないかと、思っているのですよ。
   理不人 all the people Sharing all the world...


で、「オマエが嫌いだからだ」と言われたニイちゃんはどうしたか・・・オレと罵りあいになったのか、っていうとそんなことはなく、「あっ、そうですか」と言って何事も無かったように次の標的に向かってゆきました。
そのあまりの呆気なさにオレはちょっと罪悪感を持ってしまったのよ。
アイツ、ひょっとしてああいうことを言われ慣れてるのかもなぁと思ってね。
普通ね、面と向かって「オマエが嫌いだ」なんて言われたらちょっとアレになりますわなぁ。でも、そのニイちゃんは開き直るでもなく不貞腐れるでもなく、“何事も無かったように”だったのでありますよ。私は学校へ向かう阪急電車の中で、悪い事言ってしまったかなぁと、ちょろっと反省してみたりもしたのですが、それでも再度ああいう場面に出くわしたら同じことを言うだろうと思っていたのですよ。
これはもう30年以上も前のことですが、いま現在でもたぶん同じでしょうなぁ。


オールド・デビル・タイム掲載記事一覧
もうひとつのオールド・デビル、[ランタイム]

| | Comments (0)

所在について

これを読んでくれている方たちは、たぶんほとんどが日本人でありましょう。
「日本人」という国籍があって、「なんたら県民」という所属があって、「なんたら株式会社」の社員だったり「なんたら業界」の者という身分があって、「なんたら家」の家族であったりすることで、私たちは平穏を得ているはずですが、・・・“いや、でもなぁ”・・・と思ったりすることってないですか?
自らが寄って立つところに対して“不確かさ”を感じた事ってないでしょうか?

さて前回の最後に書いたように、どうして今このときに「フォーク」なのかっていうことですが、それにはまず、「フォーク」とはなんだろか?っていうのから始めなければなりますまい。

「フォーク」=「Folk」=「民」。
「民」とは、君主制の元では「支配下にある人々」、また一神教の元では「従属する人々」という意味合いがあり、民主主義が本流となった現代社会においては「国家を構成する人々」という意味になっています。
支配されていたり従属していたりしていた民は、その「生」のすべてが君主や教会によって定められていたかといえばそうではなかったはずで、支配や従属の下にあったのは“可変”といえる部分であったのでしょう。“不変”である部分、民の生活や人生に絡む出来事や民の集合体から形成されてゆく文化といったものは何者かによって強制されてすべてが出来上がってしまうものではありませんからね。言語・方言、民族音楽・舞踏、伝承・伝説などはその生活基盤である土地の気候風土といったものによるところが大きかったはずです。以前の記事『ウブスナの波動』で書いていたように、「民」とはウブスナによって生み出されていた存在ですから。
で、現在、民主主義は当たり前のようになっていて、そうでない体制の国に対しては“人道上どうのこうの・・・”というような非難がなされたりしていますが、人間の歴史において民主主義が政治形態の主流となったのはほんの最近のことです。それも自然にそうなったのではなく、多くの血が流れた末に勝ち取られたものですね。
民主主義っていうのは字の如く「民が主」となる体制のことであって、人間の自由と平等を尊重する立場が取られている社会のことです。「民が主」となって自由を尊重される体制ならば、その民のひとりひとりがその自由を持っているべきであって、すなわち民は“自らの理由”の元に行動できなければならないわけです。
すなわち、民が民でなければ本当の意味での民主主義は機能しないのですよ。
ならば、「民が民である」とはどういうことなのか、どの様であることがすなわち「民が民である」ということなのかっていう、そこですよ。

ずいぶん昔の歌ですけども、『明日なき世界(Eve of Destruction)』っていうのがありました。これは1965年に全米ナンバーワンヒットにまでなった歌で、日本では高石ともやが訳して歌ってたのが有名です。そのコーラス部分は

  ♪ でもよぉ何度でも何度でも オイラに言ってくれよ
  ♪ 世界が破滅の前夜だなんて ウソだろぉぉぉ

今になってわかるんですが、・・・ウソだったんですよ。
世界は破滅なんてしなかった。
全地球人が危機意識を持って平和を望んだから破滅しなかったのではなく、そうではなくて、破滅の前夜でさえなかったのではないかと思うんですよ。
世界が破滅することでもっとも困るのは誰かっていうと、“世界を手玉に取っている人たち”、あるいはそれを狙っている人たちですよ。その人たちは政治や軍事を掌握しているわけですから、彼らは世界を破滅させることは出来るんだけれども、そんなことは絶対にしないのですよ。自分たちが大損するだけだから。
それじゃ彼らは何故そんなプロパガンダを流したのか?
彼らは、そうすることによって「手玉」を得ることが出来たからでしょう。
「世界を手玉にとる」とはどういうことか、手玉とはいったい何の事かといえば、それは人間のことです。世界を手玉にとるということは、すなわち人々を思いのままに動かすということです。
『明日なき世界』は強烈なプロテストソングだということになっていて、実際に発表直後には放送禁止になりかけたほどなんですけども、しかし、それでさえも“彼ら”にとっては思う壺だったのではないかと思うんですよ。現状の生活を守ろうとしている人々は常に“危機”に対して敏感で、“危機”をチラつかせれば振り向かせることが出来るんですね。そして振り向いた人々に“何事か”を告げるというのが古今を通じた政治の方法論です。告げられる“何事か”の最たるものは「敵はあいつらだ」です。この方法でこれまでにどれほどの戦争が起こり、そして手玉に取られたどれほどの人々が死んでいったことか。
そのやり方は政治でないところでも使われます。現在のテレビ番組はとにかく危機感を煽ります。経済危機だの環境危機だの健康危機だの、そして視聴者を振り向かせます。テレビが政治と異なる点は、振り向かせて視聴率を取ったあとは放ったらかしということですね。

全世界のほとんどすべての人々はなにかしらの体制に組み込まれていてその暮らしはその政治体制の下にあるのですが、暮らしている人々の「民」である部分が寄って立つところはその体制である必要はないんですよ。すなわち、日本人の暮らしは日本国の政治体制の下にありはしますが、日本人それぞれの個々人の「民」である部分が寄って立つところは日本の体制の下でなくてもいいはずで、自らの理由の下でもかまわないんですよ。というより、そうであるべきだと、私は思っているんです。
「寄らば大樹」というのはトホホなまでに良く出来たたとえです。体制の中で多数決的な損得勘定に気を使い、マスコミの煽りに動かされたり、時にはそれに乗じたりしていれば楽であることは確かですね。しかし、そんなとき、私がそのような楽をしているときにフッと感じるのは、「私の『民』はどこにいるのだろうか」という不安感です。ひいては、私は「自らの理由」を持っているのだろうかという、自身に対する疑問です。
先に民主主義がどうこうという話を書きましたが、実際のところ私は政治について語る気はさらさらありません。私の現在の関心事は、私に於いて「民が民である(私がフォークである)」ことや「自らの理由を持つ」ことはどのようにすれば実現できるのだろうかというそれなんですよ。
私は日本というウブスナから生まれた産子(ウブコ)であり続けたいし、支配や従属の下にはない真の「民」であり続けたいからです。
いわば、私の“所在”を明確にしたいということですね。

んなわけで、次回からは
民が民としてあったからこそ生まれてきた様々な表現としての民族音楽に対するアプローチや、日本人という基盤の上にあってこそ感じられる音楽の“国境”、それらに言及することが出来ればと思っておりますが・・・・・今回の話って、意味わかりますかぁ・・・。


オールド・デビル・タイム掲載記事一覧
もうひとつのオールド・デビル、[ランタイム]

| | Comments (0)

ふたつのスミカ

さぁて、その、私にとって「嬉しい人」であるところのタカダワタル的なる人は、本人としては“どうなのか?”っていうことです。
私にとって嬉しい人はその本人も嬉しいのか?、そればっかりなのか?。
高田渡は、好きに酒を飲んで、酔っ払って、いい気分で、好きな歌を唄って、ただそれだけで過ごせたのかっていうことですよ。

かなり昔の映画で『ポンヌフの恋人』(1991年)という作品がありました。
これは、パリのポンヌフ橋で暮らすアレックスというホームレスの話です。アレックスは睡眠薬を飲まないと寝られないんですね。なので、同じポンヌフ橋で暮らす老人が薬剤倉庫から盗んできた睡眠薬のアンプルをもらって飲み、やっと眠りにつけるわけです。
このシーンを見たとき、私は高田渡の唄う『生活の柄』を思い出したんですよ。
 ♪ このごろは眠れない 陸をひいては眠れない
 ♪ 夜空の下では眠れない 揺り起こされては眠れない
アレックスはただの不眠症だったのかもしれません。しかし、ひょっとすると、何かに「揺り起こされて」眠れなかったのではないかと。

私たちは、国家や会社や組織や家庭というような何かに属していることによって平穏を得ることが出来ます。しかし、そのことによって奪われてしまう自由がある。自由(自らの理由)に生きることの“ある部分”を犠牲にして全体の一部分であろうとしているんですね。そこから離れて“自らの理由”のみに近づくことを選択すれば、何かを捨てなければならない、あるいは諦めなければならないわけです。
“個”であることを選択し“自らの理由”のみに近づいた場合、「その人」には、捨ててしまった・諦めてしまったことの亡霊が揺り起こしにやってくる夜があるのではないでしょうか。
 ♪ 秋は 秋からは 浮浪者のままでは眠れない
この浮浪者が眠れないのは、♪ 冷気にからかわれて ♪だけのことではなく、たぶん秋という季節が亡霊の姿を鮮明にしてしまうからではなかろうかと、私は思うんですよ。

この歌『生活の柄』がライブで唄われるとき、
 ♪ 秋は(あーきは) 秋からは(あきからーは)
と、客がシングアウトするようなことになる場合が多いですね(『タカダワタル的』でもそうですが)。私ね、ここを一緒に唄うことが出ないんですよ。オレがこれを唄っていいものか・・・と思ってしまうんですね。私は、この山之口獏の詩が意味するところの「揺り起こされて」に遭ったことがありませんから。

そんなわけで、
“個”として生きること、「その人」のみであり続けることは易しい事ではないでしょう。
そんな生き方を選んだ人も、(アレックスのように)そんな生き方しか出来ない人も、単に“自らの理由”の中で遊んでいることなど出来ないはずです。
映画『ポンヌフの恋人』は妙なハッピーエンドで締めくくられてしまって、それまでのレオス・カラックス監督作品のファンからは非難されたらしいんですが、本来用意されていたといわれている結末ではそれはあまりに映画ではなくなってしまい、現実に近づき過ぎてしまうんですね。
現実はあまりに未整理(あるいは整理不可)の要因が多くて、映画のようにまとまったストーリーを形作れません。ほとんどの映画ではなにかしらの結末が用意されていますが、現実の結末というのは終(つい)によるしかなく、そこへ至るまでの歳月を人はなんとかして過ごしてゆかなければならないという残酷さを持っています。
それは何年なのか何十年なのかはわかりませんが、“個”であることを選択し“自らの理由”のみに近づいた「その人」は、その何年か何十年かの間、「揺り起こされて」が続くのを覚悟しなければならないでしょう。

と、ここまで書いてくると、別の疑問が浮き上がってきます。
“個”であることを選択した「その人」を、捨てて・諦めてしまったことの亡霊が揺り起こすのだとしたら、“平穏”であることを選択した人たちにはそういう亡霊が現れることはないのだろうか?、いつまでも平穏でいられるのだろうかっていうことですよ。
平穏を選ぶということが自らの“ある部分”を犠牲にしているのだとしたら、その犠牲は“ある部分”だけにとどまっていてくれるのだろうか・・・。
それはそうではないように思うんですよ。
平穏でいるために犠牲になった“ある部分”は“自らの理由”さえも侵食して、「自ら」を徐々に削り取ってしまうことになりはしないだろうか、っていうことね。
“自らの理由”は“個”を掘り下げてゆく原動力になってゆくものですが、もしもその“ある部分”を失ってしまったら、“個”を維持することの放棄につながりかねないのではないかということなんですよ。

以上のこと、亡霊に「揺り起こされて」や、“個”を維持することの放棄は、ただ私の妄想だけなのかもしれません。もし実際に起こっているのだとしても、すべての人々をどちらかの住人として分類してしまえるものでもありません。どっちかへ極端に寄っている人もあれば、「T.P.O.で使い分け」みたいな人もいるかもしれませんしね。

で、今回のシリーズの展開は、実は5つ前の記事『音触』から始まっていて、その主題は「歌・音楽の本来は何なのか」でありますよ。
2つ前の『敢えて、今、「フォーク」という』はいわば副主題なんです。
じゃあ今回の記事ってこれ「フォーク」と何の関係があるんだ?と思われるかもしれませんが、私はこの「ふたつの住処(すみか)」の関係は「フォーク」の根幹に関わることだと思っているのですよ。
そして、「敢えて、今、『フォーク』という」のはなぜなのか、
どうして今このときに「フォーク」なのかっていう、
それがぁ、次回のぉ、お噂であります。


オールド・デビル・タイム掲載記事一覧
もうひとつのオールド・デビル、[ランタイム]

| | Comments (0)

汝の”的”

さて、前回の記事からすると、誰がフォークで誰がフォークでないかというようなことを取り沙汰するように思われるかもしれませんが、そんなことはしません(って、この件については、以前ランタイムの方でやってるけども)。
私は、“いま”と“これから”について考えてゆきたいのであって、だからこその「敢えて、いま」なのでありますよ。

何年か前の正月のことです。なんとなく見ていたテレビで関西ローカルの番組をやっていて、出演者たちが「年末年始の休みに何をしていたか?」という話をしていました。
その中の角淳一という人が
「『タカダワタル的』っていうDVDを見てたんやけどね、いやあのなぁ、オレなぁ、もう涙出てきて・・・」と言ってたんですよ。
角さんという方は私が高校生の頃の深夜放送ブームの真っ只中で人気パーソナリティーとして活躍していた人で、その頃に同時に起こっていたフォークムーブメントに関する番組にも関与していたでしょうから、その懐かしさから「涙出てきて・・・」なのかなと、その時にはまだ『タカダワタル的』を見ていなかった私はそう思っていたのですよ。
でも後日、たぶん角さんはそうじゃなかったのだろうと、私はDVDを見ながら確信したんですね。なぜなら、私も泣けてきたからです。

私はあのフォークムーブメントの頃には完全に岡林チルドレンで、高田渡は岡林さんの立ち位置からはかなり遠いところにいると私には思われたので、あまり興味がなかったんですよ。高田渡のコンサートには何度か行きましたが、その目的は共演していた岩井さんでしたからね。ただ、あの頃の多くの“フォークシンガー”の中でも頭抜けた「何か」であることは感じていました。でも、その「何か」が何であるのかが、あのころにはまだわからなかったんですね。

Takadawt映像作品『タカダワタル的』、あそこに登場する高田渡という人は酔っ払いのおっちゃんなのであります。
その酔っ払いのおっちゃんはたまたま歌を唄うんですね。その歌は高田渡が“好きな歌”というそれだけのことなのでしょう。
自分で創った歌、他者の詩に曲を付けた歌、誰かが唄っていた歌、随分と昔の歌、それらの歌たちは高田渡御本人が気に入っているというそれだけの理由でそこに発現しているわけです。誰かに向けたメッセージでもないし、社会に対するアジテーションでもないし、未来を指し示す提言でもない、と、私には思われます。
でね、それを見ていると嬉しくなってくるわけですよ。
“酔っ払いのおっちゃん”という「個」がそこにいて、彼は何者にもコントロールされることなく自らの意思の赴くくままに酒を飲んで、そしてたまたま唄っている。その歌はボヤくわけではなく愚痴るわけでもない。おっちゃんは自分の好きな光景や情景が綴られているその歌を、言葉を確かめるようにして唄っているんですね。
ただそれだけなんですよ。
ただそれだけなんだけれど、それを見て聴いている私は嬉しいんだなぁ。
たぶん角淳一氏も嬉しかったんだと思うんですよ。だから「涙出てきて・・・」だったのではなかったのか、と。

高田渡について「国が認めない人間国宝」という称号を贈ったのは俳優・柄本明氏らしいんですが、確かに、国は高田渡を“宝”として認めたくはないでしょう。
日本は少子化が進んでいて、これは国にとって困ったことなんだそうで、なぜなら労働人口が減少して国際競争力が弱まるからなんですってよ。
国にとって国民は労働力なんですね。国家の生産力を高めるために働いて、得られた報酬から税金を搾り取る、その源泉となるのが“国家にとっての国民”であるのならば、高田渡はたぶんそれらの件に貢献はしないでしょうし、そんな人を国家が宝として認めるわけはないですね。
しかし、もしも、柄本さんが言うように高田渡が人間国宝であるとしたら、それは「民が求める人間国宝」なのでありましょう。
みんなホントは高田渡になりたいんじゃないかなぁ。
誰はばかること無く自らの意思で酒を飲み続け、自分の好きな歌と言葉を確かめる、そんなただの酔っ払いとしての“個”、「その人」に、という意味で。
しかし、私たちはなかなかそうはなれないんですね。「そんなただの“個”、その人」にはなりきれないんですよ。私たちは全体の一部分として生きることで平静を得ている面があります。これは相当動かしがたい現実です。
それでも、私たちの、“個”である自我は発動しようとします。
そこに葛藤が生じる。
「想い」は行きつ戻りつ、その結果、多くの人たちは平静を得ることを選択するに至るのでしょう。
ですが、まれに、“個”である「その人」を選択しつつ、平静を保てる人がいます。
「タカダワタル的」とは、そのような性質(あるいは特質)を持てる人たちに与えられるべき“的”なのであろうと思っているのですよ。

以前、[ランタイム]の方に『たまたま えらい人』という記事を書いたことがあって、その内容は“「偉い人」ってホントにいるのか?”というものでした。で、結論としては、私にとって偉い人というのはいないということになりました。っていうか、私は、世間的に言われているそういう人たちに関心がないんです。
私にとって気になる人・関心がある人は、“嬉しい人”なんですね。
「こういう人がいてくれるという事が嬉しい」という、そういう人のことです。
タカダワタル的なる人は、私にとっての“嬉しい人”なんですよ。

DVDに収録されている『ブラザー軒』でのMCで、渡さんがこんなことを言ってます。
「ここに映ってるのはオバケの話です・・・そして私自身がオバケです」
ずいぶんストレートな曲解説でありますが、渡さん自身が「オバケ」だというのは正にそうかもしれません。この時代のこの日本に高田渡のようなフォークシンガーがいる(現在となっては「いた」)こと自体が不思議であり、確かに渡さんは生きているオバケだったのかもしれません。
しかし、♪ たのしーな たのしーな オバケにゃ学校も 試験も何にもない ♪だったのかどうか。
オバケであることの実際は“楽しい”ことばかりであるのか・・・
そんなことを考える、
次回のタカダワタル的ココロだぁ~


オールド・デビル・タイム掲載記事一覧
もうひとつのオールド・デビル、[ランタイム]

| | Comments (0)

敢えて、今、「フォーク」という

ゴスペルや民族音楽がどうのこうのと書いてきたわけですが、これは、ある到達したい見解があって、そのための基礎を固めようとしていた、というか理論武装をしようとしていたわけです。
しかし、それをコツコツと書き綴っても読む方は飽きるでしょうし私はまだるっこしいことになってくる気がするし、えいっと、先に見解を述べてしまってからその論拠を確かにしてゆくという方法をとることにしました。

ゴスペルはヨーロッパを起源とする賛美歌が基にあるとしても、教会が定めた音楽ではなく、黒人音楽なんだと思うんですよ。黒人という”人種”から生まれた音楽ですね(ホワイト・ゴスペルについては後述)。
民族音楽とはある地域に居住し続けた人々の中から生まれ出た音楽であって、土地と気候と風土に影響を受けた人々の発する波動です。
ゴスペルは人種という源を持ち、民族音楽は土地という源を持ち、「民」より生まれでたものであって、国家や体制や権威によって定められたものではないわけですよ。

で、一般的な日本人の身近にはゴスペルや民族音楽に類する歌・音楽がないわけです。異議のある方はおいででしょうが、私は言い切ってしまいます、無いのだっ!
沖縄については例外です。
以前から何度も書いていますが、私は沖縄を日本ではないと認識しています。
沖縄の人々は現在のところ便宜上日本人という立場をとっておられるが、あの方々は琉球人だと思っております。琉球の民は、東シナ海に浮かぶ瑠璃色の弧状群島に栄えた琉球王国の末裔であり、ヤマトの民とは違うのですよ。
何年か前になりますが、大工哲弘さんが京都でライブを行ったとき、わざわざ京都の民謡を調べてくれたらしく『宮津節』を歌ってくれたのですよ。「京都の島唄だからね」と言って。しかし、『宮津節』は確かに昔は有名な歌だったらしいのですが、今じゃ年寄りでも知ってる人は少なくなってるんです。沖縄では民謡は今も民の身近にあるけれど、ヤマトではそうじゃなくなっているんです。
昭和に入ったあたりで、すでにもう、民の身近に民謡はなくて、唱歌・流行歌・軍歌などになり替わっていたのでしょう。

唱歌・軍歌とは国が制作して国民に配布した、いわば国策音楽だったんですね。
文部省唱歌の作詞者・作曲者は、作者を一切公表しないという前提で制作を依頼されたそうで、その関係者にも口止めがなされたそうです。
そして昭和の大禍である太平洋戦争の後、民の周辺にある歌・音楽の主たるものは流行歌となってゆきました。
終戦後まもなく映画『そよかぜ』の挿入歌であった『リンゴの唄』が大ヒットしたのは有名ですが、このヒットの要因は映画の上映ではなく、ラジオで聴かれたことによるものだったんですね。

唱歌・軍歌は国家によって制作され国から配布されました。
戦後の流行歌は作家によって制作されマスコミを通じて流布されてゆきました。
つまり、ここまでの昭和の歌たちは“民からは遠い何者か”によって制作され“大きな影響力(あるいは統制力)を持ったどこからか”流されてくるものであったのですが、戦後20年を経たあたりからそれらの流行歌とは毛色の異なる歌が発生しました。
その歌は、専業作家ではない個人が創った歌をその本人が唄う「歌」であり、それは日本における“フォークソング”の始まりでした。

あのですね、わたくし、敢えて今、「フォークソング」について考えようと思うんですよ。

日本のフォークムーブメントの黎明期から活動していた高石友也が1960年代後半に滋賀県・近江八幡でコンサートを行ったとき、その客席には(まだただの学生であった)岡林信康がいたんですね。
岡林さんは、自身が歌うようになったきっかけについて「フォークシンガー高石友也のコンサートを聞いて感動したからである。」(著書『バンザイなこっちゃ!』)と書いておられるんですが、ライブでは「この程度ならオレもやれる」と思ったからだと言ってました。
この「この程度なら・・・」っていうのは意外に大事なところで、「オレもやれる」というのは「オレもあのような歌なら歌いたい」だったのではないかということです。流行歌でもなく学校で習わされる歌でもなく賛美歌でもない「個人が“選ぶ”歌」をということですね。
「個人の歌」、すなわち、「自らの理由のみによる歌」ということです。
「“自”らの理“由”」、すなわち「自由」ということです。

10年くらい前からでしょうか、NHKが盛んに「フォークソング」を取り上げ始めました。
日本のマスコミにおける「フォークソング」の規定は甚だ曖昧で、どのような歌を指しているのかといえば、それは60年代終わりから70年代にかけて登場したシンガーソングライターたちの歌のことか、またはそれらの人たちが関係していた歌のことなんですね。
マスコミの扱いでの「フォークソング」は、ただ「あのころのあのような歌」であって、しかし、そこでは歌われている内容に考慮は及んでおらず、“1970年前後にフォークシンガーと呼ばれていた人たち的な”というだけのことなんですよ。

 ♪ 君が想うそのままのこと 歌う誰か見つけても
 ♪ すぐに恋に落ちてはダメさ
 ♪ 「お仕事でやってるだけかもよ」
これはテレビアニメ『懺・さよなら絶望先生』の主題歌『林檎もぎれビーム!』(大槻ケンヂと絶望少女達)の歌詞です。
さすがの大槻ケンヂ先生、鋭い御指摘でありますな。

1970年前後のフォークムーブメントの勢いというのはとても大きかったわけで、このムーブに便乗しようとする多くのヤカラが「フォーク」に紛れ込んできたわけですよ。その中でうごめいて商売にこぎつけていた“フォークっぽい”や“フォーク風”や“フォークもどき”のすべてが現在では「フォークソング」という括りで扱われているのです。
しかし、「自らの理由のみによる歌」と「お仕事でやってるだけ」は違うのだよ。

ささ、次回に続きますよ。


オールド・デビル・タイム掲載記事一覧
もうひとつのオールド・デビル、[ランタイム]

| | Comments (0)

ウブスナの波動

“歌・音楽の本来は何なのか”の続きでありますが、妙な話から始めます。

私が高校生のとき、世界史の教諭が生徒たちにこんな質問をしました。
「日本人とはどんな民族かを端的に述べられるか?」
ん!、ん&ん?・・・あなたならこれに対して即答できるでありましょうか。
あんぐり状態の生徒に向かって、世界史の教諭(何ていう名前だったか忘れたけども)はこう言い放ちました。
「日本人とは、すぐきを食って日本語を喋る民族だっ!」
(note:「すぐき」とは京都市北部でのみ製造されてきた乳酸醗酵系の漬物)
それを聞いたとき、私は“おぉ、簡潔な考え方”と感心しましたよ。
で、そのときにはそれだけでしたが、それが今になってみると、“なんと味わい深く深遠な規定であることか”と感服するのでありますね。
教諭は「すぐき」と言ってましたが、これは“土地固有の食物”を意味するのでしょう。「日本語」とは弓状列島に住む人間が発生させた言語体系です。となれば、教諭が規定する日本人とは「日本の土地と風土から作り出された食物を摂取し、そこに発生した言語体系で意思の疎通を図る民族」なのでありますね。

その、日本古来の宗教である神道では、「産土神(ウブスナガミ)」という考え方があります。
産土神は氏神(うじがみ)よりも広範囲の地域を司り、その土地から生命を生み出します。産土から生まれ出た命を「産子(ウブコ)」と呼ぶのですが、産土神は生み出すだけではなくて、その産子を見守り守護するという役割を持っているらしいのです。たとえ産子がその土地を離れてしまっても、産土神は産子を終生見守り守護するのだといわれているのですな。
でね、宗教形態としての神道ではこの「ウブスナ」が「神」ということになるわけですが、実際には、神のような“意識体”以前の存在としてでも考えられるのではないかと思うんですよ。その土地形状がもたらす生態系だとか、土質が持っている栄養素だとか、気候に影響された人々の気質だとか、ですね。そのような、地域が持っている要素のすべてを含めて「ウブスナ」だと考えてもいいんじゃないかと思うんですよ。

はるか昔から近代直前まで、人はウブスナの中で生活していたはずなんですよ。

何よりも食い物です。摂取していた食物の多くは、生活している土地(またはその近郊)で収穫された食材だったわけですよ。これは要するにウブスナを体内に取り込んでいたということです。その上で、人々は、温暖であったり過酷であったりするそれぞれの風土の中で暮らし、その中から生まれ出てきた日本語の抑揚としての方言でコミュニケーションを取り、それらウブスナの積み重ねによって、人々は“民族”となっていったのですな。
そして「民族音楽」とは、方言や気質と同じく、ウブスナから生まれ出たその地域固有の波動ともいうべきものでしょう。

さて、現代においてもウブスナは存在しているはずですが、先進国といわれる地域の人々はウブスナから遠くなっているようです。
まず食い物ですが、いまの日本人の多くは、生活している土地で採れた(獲れた)食材よりも他の地域から搬入された食材を摂取していることが多いのですね。
住居は密閉性の高い様式になってゆき、それは気候風土から遮断された住空間をつくります。住空間以前に、“開発”の名の下に広げられる人間のための土地利用の均一化は生態系を荒らしてゆきます。
先進国といわれている国々の民族は、搬入食材を摂取し、民族衣装を着用せず、均一化された住宅に住み、民族音楽を保持できなくなり、ウブスナから離れてゆきます。これが現代でいう「先進」なのでありますね。
なぜ自分たちが持っていたはずの民族音楽を保持できなくなっているのかと言えば、ウブスナを遮断しウブスナを摂取していないために、自らの波動であるはずの民族音楽に共鳴することができなくなっているからなんですよ。いや、民族音楽だけではなく、地域の波動そのものに共鳴できなくなってきているのではないかと。最近の子供たちの多くが何かしらの食物アレルギーを持っているらしいのですが、このこともウブスナに関わりがあるのではないかと思われます。

しかしながら、私たちは他地域の民族音楽にココロを揺り動かされるときがあります(ここでいう“私たち”とは日本人だけではなく、先進国に類する地域に住む人々も含めてです)。
東南アジア諸国や中部ユーラシア平原、アラブ諸国、東欧の深部やアイルランド、そしてアフリカ、これらの、人間が暮らすには過酷な条件の地域にはいまもって民族音楽が生き続けており、それらを聴く私たちには、追憶のような感傷のような懐郷のような感情が湧き上がってきます。これはいったいどこから来る感情なのだろうかと・・・。
たとえばですよ、あなたが「民族音楽」という言葉で思いつくのはどんな音楽でしょうか?
それはたぶん日本国内の民族音楽ではないでしょう。近くても琉球の民謡だったりするんじゃないでしょうか。だいたいですね、日本の民族音楽って何よ?ってことになりますわなぁ。えっ~と、えっとぉ、「江差追分」とかかなぁ、津軽じょんがら節かな・・・みたいなことになってしまうでしょ。多くの日本人にとって、そういう日本の民族音楽はいまやオルティンドーやガムランなどとたいして変わらない位置にあるものとなってしまっています。
なぜそうなってしまっているのか・・・それは、私たちの中にあるウブスナがまったくもって希薄になってしまっているからなのではないかと思うんですよ。私たちが持っているウブスナは、もはや帰り着くべき場所もわからないくらいに希薄になってしまっていて、他の地域のウブスナが生み出した民族音楽にその面影を求めたりしているのではないかと。神道的な主観でいえば、自分を終生見守り守護してくれるはずの産土神を見失い、他地域の産土神を代替として恋慕しているのではないかということですね。
くりかえしますが、ここでいう“私たち”とは日本人のことだけではありません。
ちょっと前にベルギー系のレストランでライブを聴いたんですが、そこにはベルギー人のバンドが来ていて、なんと彼らはアラブ系の楽器を使ってアラビア音楽に基づいたオリジナル曲を演奏していたのですよ。ベルギー人がアラブ音楽ですよ。
あ~、この人たちもそうなんだなぁと、なんだか妙に納得してしまいましたが。

で、ここで、この話の始めに出した世界史の教諭の言葉に帰るのでありますが、教諭が言いたかったことの本質とは、
「日本人とは、すぐきを食って日本語を喋る民族“であるべき”だっ!」
であったのではないかと思うのでありますよ。
しかしです、これは今となってはまったくもって難しいこととなってしまいました。
地方都市の活性化とか、正しい日本語とか、エコロジーとか、そんなどころの話じゃないんだもんね。

ワタシラ、いったい、どしたらいいんだろうなぁ・・・と考えながら、
次回は“流浪する音楽”について、であります。
たぶん。

オールド・デビル・タイム掲載記事一覧
もうひとつのオールド・デビル、[ランタイム]

| | Comments (0)

祈・訴・Sanctified

ま、そんなわけで前回の続きなんですが、「歌・音楽の本来はいったい何なのだ」でありますよ。

3つ前の記事『十法世界は誤解で保つ』の中で、演歌を唄うヒップホップな兄ちゃんの話をちょこっと出しました。“彼は演歌を誤解している”ということですね。
私はこの人「ジェロ」の歌を聞いたときに“ゴスペル”を感じたのですよ。で、思ったわけです、この兄ちゃんは演歌をゴスペルだと勘違いしてるんじゃないかな?、と。
彼が黒人で、ラッパーのようなスタイルで唄っているという、見た目だけからそう感じたのではないんです。ジェロの発音にはほとんど外人訛りがなく、コブシも演歌のそれで、作曲の宇崎さんも演歌として作っているようですから、声質が日本人のものではないというのを除けば、あれは確かに演歌なんです。が、その演歌の隙間からこぼれ落ちてくるものがあって、私にはそれがゴスペルだと感じられるんですね。
たぶんその原因は微細なリズムなんですよ。
私にゴスペルを想起させるその微細なリズムはどこから出てくるのかといえば、ジェロの“血”から、なのであろうと思うんですね。彼自身は演歌をゴスペルだとは思っていないでしょうし、演歌は「艶歌」・「怨歌」・「宴歌」であることを十分にわかっているでしょう。しかし、どうも、ジェロの中にある黒人の血が、演歌の節回しに乗って現れる「祈り」や「怨み」や「思い」に感応し、そこへゴスペルのリズムを注ぎ込んでしまうのではないかと思われるのですよ。
では、このゴスペルのリズムとは何か、です。
ジェロは日本人の血が四分の一入っている、いわゆるクォーターらしいですが、ペンシルベニア州ピッツバーグの出身でピッツバーグ大学卒業ですから、れっきとしたアフリカ系アメリカ人です。で、彼がどれほどの信仰心を持っていてどれだけ教会に通っていたかはわかりませんが、私たち普通の日本人には想像がつかないほど、アメリカ人と教会の関係は強いそうで、特に黒人教会音楽は子供のころからの影響となって残ってゆくものらしいんですね。
ジャズの帝王と呼ばれたマイルス・デイビスでさえ黒人教会の音楽から影響を受けていると語っています。1981年10月に行われた児山紀芳氏によるインタビューの中で、バプチスト教会に通った者にしみこんでいるリズム感覚を「サンクティファイド・リズム」と言っており、「オレ達の身体にはバプティズムの血が流れているってことさ」と答えています。
で、ジェロがあれだけ話題になって、実際に『海雪』はヒットしたわけですが、その要因は、彼が“黒人初の演歌歌手”という話題性と楽曲の良さだけではなかったのではないかと、私は考えるのですよ。むしろ黒人初などというのは添え物にすぎず、彼の演歌が日本人に何かを発したのではないかと思うんですね。
その何かとは、マイルスが言うところの「サンクティファイドSanctified・リズム」なのではないかと。

「ゴスペル」はアメリカが生み出した音楽ジャンルであって、アメリカン・ポップミュージックに多大な影響を与えているにもかかわらず、私たち日本人には“わからない部分”が多いんですよ。
日本人には基本的にキリスト教がわからない。
教義を理解する事はできるけれども、その教義に基づいて信仰できるかいえば、それは別の話ということになってしまいます。もちろん日本人の中にも敬虔なキリスト教徒はいらしゃいますが、日本国内の信徒数は約260万人程度らしいですから、かなりな少数派ということになります。
私は高校生のころからアメリカのブルーグラス・ミュージックに入り込んで、現在でも「音楽的本籍はブルーグラスである」とまで言っているんですけど、ブルーグラスにもゴスペルは大きく陣取っていて、さぁこれがわからないんですよ。高校生のころはこのゴスペルの部分がただ退屈で、私にとっては“ブルーグラスのいらない部分”でしたが、歳を重ねるにつれ、この受け取り方が変化してきました。
何故これほどゴスペル部分の割合が大きいのか。
どうしてこれほど気合を込めて「神」を歌えるのか、ということです。
トラディショナルの部類に入る古い曲では「Saver(救い主)」や「Lord(主)」という言葉が多く使われ、「Jesus(イエス)」は近年の歌になって出てきますが、いずれも唯ひとりの神を指しています。「ジーザス・クライスト」ですね。
そして歌われる内容は「いかにも」な言い分の連続であって、ただ一人の神に対してなぜこれほどまでにストレートな信じ方が出来るのかが不思議なんですよね。ただそれは逆に考えれば、人の本領たる祈り(あるいは呪)とはそんな真摯さを持つものであって、それほどまでの祈り(あるいは呪)が必要であったということなのでしょう。迫害や差別や軋轢にさらされていた黒人達や、白人でありながらプアーホワイトと蔑まれていたアパラチアの人々、これらの人たちの歌うゴスペルは、ときに、信じる者をないがしろにする神への逆切れとも思えるような強烈さを持ちます。
ゴスペルはヨーロッパの「賛美歌」を源流に持っているらしいのですが、今あるゴスペルを聞くとまるで別種であるように思われます。強いリズムを持ち、ブルーノートがうねり、神を賛美し敬うというより、神に相対する一個の意思が発する「訴」のカタチにまで昇華されているようです。
そして、だからこそ、それらは人間の「祈り」から発せられるのであろう「サンクティファイド・リズム」を持つことになるのではないか、と、私は思うのですよ。

しかし、日本人である私に、この感覚はわからないのでありますね。
ですから、私はどうやっても「サンクティファイド・リズム」を発することはできないのではないかと思われるのですよ。
日本人では、その信仰が神道であろうがなかろうが、神は一人ではなく八百万(やおよろず)なのだという感覚があります。
これね、「神さん」にとってはこっちの方が楽だと思うのね。一神教の場合、たとえばキリスト教徒は全世界に20億人もいるらしいですから、キリストさんは常にこの20億人を相手にしなければならないわけですよ。いくら神さんといえど、一人で20億人は無理だよねぇ。聖徳太子だって10人ですよ。日本のヤオヨロズの場合は、800万もいるんだから、人間の側からすれば「その中の誰かが相手をしてくれるだろう」というのがありますし、神さんにしたって「オレが聴かなくても誰かが聞いてるだろうよ」という気楽さがあると思うんですね。
でね、私がここのところ考えているのはですね、こんな日本の神の本分の薄さによる「あやふや的わびさび的ゴスペルは可能か?」っていうことなんですよ。
高田渡さんが2005年に亡くなりましたけど、その直前にカトリックの洗礼を受けて、その洗礼名が「パウロ」だそうです。吉祥寺の教会での葬儀の最後、出棺の際に誰かが「パウロかよ・・・」とつぶやいたその言葉に静かな笑いが広がったという、これ、ホントの話なのかどうなのか知りませんが、そんな日本人的ハラホレ宗教観がもとになっているゴスペルが出来ないものかとねぇ、思うんですよ。

ま、そんなわけで、えっとぉ・・・、一応今回は「ゴスペル」っていうことでしたが、次回は「民族音楽」について、でありますよ。
続けて読めば、いいことがぁ~
ま、ないかもなぁ~。


オールド・デビル・タイム掲載記事一覧
もうひとつのオールド・デビル、[ランタイム]

| | Comments (0)

音触

さぁて、久しぶりに“長いの”をやってみようか思っとるのですが、これまでにやってきた長いのは書き出す段階で結論がほぼ見えていたんですけど、今回のは見えてなくてね、うむ、どうなるのでありましょうかな・・・

あのですね、ワタクシちょっと前に、近所のライブハウス(京都・双ヶ丘)「SOEN」で、スティールパンがメインのジャズコンボを聴いたんですよ。
スティールパンというのはドラム缶の底部分を切り取って底面部をハンマーで叩き伸ばし、厚薄を区切って音階を出せるようにした楽器です。発祥はトリニダード・トバゴで、スティール・ドラムとも呼ばれています。
実際の音と演奏はこんな感じ(←クリックでYouTube)です。
私は以前からスティールパンに興味を持ってはいたのですが、生で聴くのはその時が初めてでした。その日のコンボはクインテットで、スティールパン奏者は大阪・豊中市から来られた釣千賀子さん。PAは使っていないようなので、私はスティールパンの正面に席を取り、その距離4メートルほどです(「席を取り」と書きましたが、実は、ライブ開演時に客は私ひとりだけだったのよ、ハラァ~)。
で、演奏が始まって驚きました。これまで録音で聴いていたのとはえらく違うんですよ。
スティールパンは鉄板で出来ていて、異なった音階がビッシリと隣り合っている構造ですから、複雑な倍音を発生するんです。楽器音が「生」と「再生」では異なっているというのはしょうがないことで、アコースティック楽器が出す複雑な音色は完全に再生しきれないものではありますが、これほど違っていたのは初めてで、「いい音やなぁーっ」と“音”が出ただけでも感心してしまったのでありますよ。

さて、この「いい音」っていうことです。
(プロミュージシャンではない)私たちが音楽を聴く場合、そのほとんどがスピーカーやヘッドフォン・イヤホンで聴くことになりますね。音楽として一人立ちしている楽器音や人の歌声をスピーカーを通さずに聴ける場というのはあまりないものです。私たちが聴く“音楽”はほとんどが再生されたものでありますよね。
その場合、当然“いい音”で聴きたいわけですよ。
で、この“いい音”なんですが、最近の“いい音”っていうのは、これどうなんだろか?と私は思っておるのです。
まず、おっさん(1956年生)の昔話から始めますけどね、ついて来てちょうだいよ。
日本では1960年ごろから、後にオーディオブームと呼ばれることになるスパンが始まり、私が音楽を熱心に聴き始めた十代半ばごろ(1970年前後)は、当時「ステレオ」と言われていた再生装置が飛躍的に発展していた頃だったのですよ。音楽好きたちは狭い六畳間にバカでかいブックシェルフスピーカーを据えて、「いい音だねぇ~」とか言ってご満悦だったのですな。とは言ってもですよ、ウサギ小屋ですからねぇ、据えられた機器は性能の十分の一も発揮できていなかったはずなのにね。
で、その頃のオーディオ装置の要点は「原音再生」だったのですよ。レコード盤に記録された音源をいかに忠実に再生することが出来るか、ですね。そしてそのレコード盤、塩化ビニールの「LP」ってやつですが、これについても、演奏されている音をいかにしてそのまま忠実に記録出来るかが大事だったのですよ。要するに、レコードとオーディオ装置の役目は、生で演奏されている音を変化させることなく再生出来るべきこと、であったのです。

ん?、この話はもういいなぁ・・・とか思ってますか。
我慢してちょうだいよ。
人間はね、我慢してたら後でいいことがあったりなかったりしますから。

そしてそのころ、「ドンシャリ」という言い方があったんですよ。
これは低音域と高音域が強調されている再生時の特性を表していて、良い特性の意味として使われたものではありませんでした。ドンシャリは主にアメリカンサウンドの傾向とされ、安っぽい音である場合にこの言葉が使われていました。
ドンシャリの本来は、1960年代にアメリカのモータウンが自社のR&Bサウンドにメリハリを付加するための補正として施したのが始まりらしいので、元はレコード制作のマスタリングの際に処理された方法なんです。そのメリハリ効果は音楽再生機器にも応用されることとなり、派手で明るく耳に残る、若者向けにチューニングされた機器が出てきたんですね。

で、ここ10年間でのオーディオ機器の主流といえば、iPodを代表とする携帯デジタルプレーヤーでありますね。ちっこくて、大容量で、そして“いい音”だとされています。
けどね、あれ、ホントにいい音なのかと、私は思うのさ。
かく言うワタクシ、実は携帯デジタルプレーヤーの類はひとつも持ってません(アレで音楽を聴きたいとは思わないからです)。iPodは友達やら知人のものを聞かせてもらったわけですが、ま、確かにね“いい音”のように聞こえます。
けど、あれ、チューニングなんだぜ、皆の衆。
わかってるのか?ホイールくるくるしてる皆の衆。
え?あっそう、知ってたのかい、皆の衆。
そうなんですなぁ、最近のポータブルオーディオっていうのはそれぞれの機器でチューニングが違っているのが当たり前になってるんですってね。
そして、チューニングということで言えば、私らの年代は、再生装置の特性とは別に、録音されている状態っていうものが原音重視のフラット特性であるべきだという主観があるんですが、いまのポピュラー音楽っていうのは録音自体がマニピュレート技術によってチューニングされてしまって、一様にきらびやかで派手で、聴き手の気を引くような「音触」に仕上げられてしまっているんですね。
その上、再生機器までもがチューニングされてしまってる。そして、そのチューニングされた再生機器で聴く事を想定したマニピュレートまでもが施されているらしく、楽器本来の音や人の生の歌声が“再生”されることは無くなってきているわけですよ。
「録音」と「再生」に「マニピュレート」と「チューニング」が加わって、それでひとつの楽器として機能しているのだいう考え方もできるかもしれませんが、それで歌・音楽はいいんだろうかと思うのよ。
そういう再生音楽に耳が馴染んでしまうと、(インディペンデント系などでたまにある)マニピュレートされていないCDがヘナヘナに聞こえてしまうことがあるんです。そういう音源は再生装置によって聞こえ方が大きく違ってきて、それをなんだか安っぽい音楽だと錯覚してしまうことが、私にはあるんですよね。そんなとき、なにかしら、“グラッ”と“ユラッ”とくるものがあるんですよ。

今の再生音楽の状況は間違ってるとか、原音再生に戻るべきだとか、そんなことを言うつもりはないんですがね、歌・音楽の本来はいったい何なのだと、それが気になっているわけです。

そして、話は次回に続くのだよ・・・
これに懲りずに、次回も読んでくれぃ。
そしたら、いいことが、あったりなかったりぃ~


オールド・デビル・タイム掲載記事一覧
もうひとつのオールド・デビル、[ランタイム]

| | Comments (0)

身の程知らず 歌うたい

「誰かから恩を受けたなら、その人以外の10人にその恩を返しなさい。」
昔、中国ではこんなことが言われていたそうですよ。
でもまぁ、これを行った人は少なかったんでしょうね。もしも多くの人がこれを実行していたならば、世の中はどんどん良くなっていたはずですけど、実際そうはなってませんし。
ワタシだってイヤですよ、そんなこと。「その人以外の誰かに」というならわかりますけど、10人だもんなぁ、めんどくせーです。
でもですね、“恩を受けた”っていうのではないですが、“影響を受けた”ということでは、私のこれまでの五十余年は歌・音楽から受けた影響が非常に大きくて、それについては何らかの方法でどこかに“返す”ということをしなければならないと思っているんですね。このブログもそのひとつのつもりです。

前回の記事で、自分で歌・音楽を作り始めたということを書いていました。
そんなことをしようと思ったきっかけは、「バスカー」というミュージシャンたちの存在を知ったからです。歌・音楽はテレビやラジオやCDやインターネットやライブハウスやらで聴けるわけですけども、そうじゃない場所にも歌・音楽があって、「バスカー」とはイギリス・ロンドンの地下鉄通路で通行人たちに向かって演奏しているミュージシャンなんですね([ランタイム]に、日本人バスカー土門秀明さんについて書いています)。
彼らバスカーたちはストリートミュージシャンではなく、ロンドン当局によるオーディションを経て認可を受けた“職業”です。地下鉄通路に「ピッチ」とよばれる指定箇所が設けられていて、そこで演奏し、通行人たちからチップを得て生活しているという、プロミュージシャンとしてはかなり変わった形態ですね。そのジャンルや演奏方法は様々で、老若男女・多国籍の500人くらいが認可を受けて活動しているんだそうですよ。
バスカーたちはその場所を行き来する人達からのチップが収入になるわけですから、その演奏を聴く人々に気に入られる演奏をしなければならないわけです。つまり、その場とそこにいる人達のために演奏するんですね。演奏している場所は通路ですから、そこにいる人達は音楽を聴きに来てるわけじゃなく、しかも通行しているのですから聴いている時間は長くても10秒間だというのですな。その短い時間に、いいなぁ・・・と思わせる演奏をしなければならないんですね。“いいなぁ・・・と思わせる”って書くと客に媚を売るみたいですけども、10秒間で媚なんて役に立たないわけですから、ということは、聴いたその人の中に何かの“良き事”を起こさせるということなんだと思うんですよ。
つまり、バスカーとは、たった10秒間で人の心に“良き事”を起こさせることが出来るミュージシャンでなければならないということなんでしょう。

でね、そんなことを考えると、現在のマスコミ絡みの音楽っていうのは、聴く人の心に“良き事”を起こせてるんだろうかって思うわけです。日本において、マスコミによって煽り立てられる音楽は聞き手のことを考えている音楽なんだけれども、それは“どうやってダマすか”という意味で考えているのだと私は思っているのですよ。それらの音楽の全部だとはいわないけれども、そうなんです。そのことを(悪意を以って)言い換えるならば、性悪女が手練手管を駆使して客からカネを巻き上げてるようなもんなんですよ。
そうではない歌・音楽、私の(人の)心に良き事を起こす音楽はあることはありますが、それは非常に目立たないところにしかないんですね。テレビやラジオやCDやインターネットやライブハウスやらの非常に目立たないところにあるんです。
そんな目立たないところにある音楽を探すためにテレビ・ラジオの目ぼしい番組をチェックしてゆくのは時間がかかりますし、“良き事の音楽”が封入されているCDを見つけようとすれば相当な額の出費になりますし、ライブハウスはどこにでもあるというものではありませんから出かけてゆくのが厄介です。
で、今の時代、インターネットがあります。コンピウタと回線さえあればどこでもアクセスできます。時間帯を気にしなくてよいし、費用はかなり安価だし、場所が限定されない。そのインターネットで聴ける音楽の数量は膨大ではあるんですが、その多くは対価を要します。やっぱり音楽を聴くにはおカネがいるんですよ。いや、これね、当然といえば当然でねぇ、スピーカーから流れてくるような音楽は仕事として作られたものですからね。
でもなぁ、インターネットを行き来している途中にちょっと寄って歌・音楽を聴いてゆける「ピッチ」があればいいのにと思うんですよ。多くの人達が気軽に通行できるインターネットの中に、無料で聴ける“良き事の音楽”があれば・・・と思うんですなぁ。

以前の記事『歌うたいという生き方』で、
  趣味ではなく芸術でもない歌・音楽を創り続けること。
  遊びではなく仕事でもない歌・音楽を持ち続けること。
  これが、「歌うたいという生き方」なのであろうと思うのですよ。
と書きました。
たとえばそんな“歌うたい”が実際にいたとして、その人がインターネットの中にいたとして、インターネットという地下鉄通路で、その場のための、そこにいる人達のための歌・音楽を演奏していたら、それはとてもいいんじゃないかなぁ~とね、思うのよ。
そんな(仮定の)ミュージシャンを、今、私は「ネットバスカー」と名付けます。
インターネットという場の、そこにいる人達のための歌を「サイバーフォーク」と名付けます。

で、私は、ネットバスカーとサイバーフォークへの実験として、自分で歌・音楽を作ってインターネットの中に置いてみるという試みを始めたんですよ。
通行しながら聴いてゆける“良き事の音楽”ができないものかと。
もしもそれが少しでも実現できれば、冒頭に書いた“返す”ということになりはしないだろうかと思っているわけです。
私の乏しい資質からして、それは「野望(身の程を知らない大それた野心)」以外の何物でもないのですけども。


オールド・デビル・タイム掲載記事一覧
もうひとつのオールド・デビル、[ランタイム]

| | Comments (0)

十法世界は誤解で保つ

インターネットはマルチメディアを駆使することが出来るのではありますが、しかし、今もって表現の大部分は文字による文章です。で、この文章ってね、物事を正確に伝えようとすると意外に難しいもので、“てにをは”の使い方だけでも微妙にやっかいな誤解を生じることがあります。「~に」と「~には」だけでも、その前後にどんな語句が配されるかによって表される内容が違ってきたりするわけです。
そんなこんなで、ネット内での文章のやりとり(メール・掲示板)からは些細なことで誤解が生じたり悶着が起こったりして、それがこじれて刃物沙汰になったりして、ま、それはそれで当事者ではない私なんかには面白かったりするわけですけども。
この「誤解」というのはたぶん人間社会だけに存在するのだと思うのですが(ん?ひょっとして猿社会にもあるかな)、これは困ったことになるばかりのものでもないかなぁ・・・という、それが今回の話でござります。

歌・音楽で、「わたしゃ日本語のものしか聴かないっ」という人は多くはないでしょうね。音楽が好きな人はたぶん他国語の歌も聴いて楽しんでいるでしょう。で、それらの歌を“楽しんでいる”といってもですな、その歌詞の意味するところがどのくらいわかっているのかって、これ、気になりませんか?
『ダーティー・オールド・タウン(Dirty Old Town)』という古い歌があって、これはイギリスではとても有名な曲で、えらく多くの人が取り上げて歌っています。ロッド・スチュワートも歌ってますね。私はイギリス系の音楽が好きだったので、かなり昔から何人かのものを聴いてはいたのですが、日本語でこの歌を唄ってる人がいるのを知ったは最近でして、それはオクノ修さんのアルバム『こんにちわマーチンさん』に収録されているものでした。
オクノさんは原詞を自分で訳して唄っているのですが、この内容が、原詞が表している情景とは微妙に、いや微妙以上に違うんですよ。それゃ、そっくり直訳してしまうと「歌」として成立しないのが普通ですから“意訳”の方向を持たせるわけですけど、それにしてもオクノさんのは“微妙に誤解した”意訳じゃないか?と思えるところがあるんですね。しかしところが、オクノさんの『ダーティー・オールド・タウン』には訳詞につきもののぎこちなさがなく、「日本語の歌」としてしっかり成立していて、それがオクノさんの声質・唄い方・スタイルにしっくりと馴染んでいるわけですよ。
で、私は思ったわけです。
オクノさんは歌として成立させるため、「意図的に誤解している」んじゃないかと。

『Dirty Old Town』は1949年にユアン・マッコール(Ewan MacColl)によって創られた歌で、「汚れた古い町」とはマッコールが生まれ育ったサルフォード(マンチェスターの近く)のことなんだそうです。ところがこの歌は、いまやアイルランド・ダブリンの歌として広く認知されており、イギリス・アイルランドを問わずスタンダード・ナンバーになってしまって、先にも書いたように多くのミュージシャンが取り上げています。その中でも私はポーグス・The Pogues(←クリックでYouTube)のものが好きなんですよ。シェイン・マガウアンの壮絶な歯並びとともに、哀愁を帯びた投げやりな歌い方が素敵です。
でね、英語圏の人達は『Dirty Old Town』を『Dirty Old Town』としてしか扱えないわけですよ。ここまで有名になってしまい、ダブリンのテーマソングみたいになってしまった曲を自分の勝手で改変したりは出来ないわけで、言ってしまえば、『Dirty Old Town』の呪縛のもとにあるわけです。
でもですね、私ら日本人は英語圏の者ではないですから誤解してもいいわけですよ(いやいや、いいわけではないけどね)。「原詞からしてこういうことだと思ったんだけどねぇ~」っていう態度で、善意の誤解をしてしまってもいいと、私は思うのよ。オクノ修さんに直接『ダーティー・オールド・タウン』について伺ったことはないんですけど、どうもオクノさんはそれをやってるっぽいんですよ。ですから、オクノさんに『Dirty Old Town』の呪縛はなくて、日本語の歌としての『ダーティー・オールド・タウン』があるばかりなんですね。それがカッコいいなぁと思うんですよ。
で、私はカッコいいのが好きですから、最近始めた別冊オールドデビルタイム・[オールドデビル・ピッチ1]でそれをやってみました。私の『ダーティー・オールド・タウン』を作ってみたんですよ。私のは、原詞に出てくる言葉「運河・工場の壁・猫・彼女・春・サイレン・鋭い斧・枯れ木」なんかを抽出して再構成(という名のデッチあげ)をやらかしてみましたから、オクノさんのような“微妙に誤解”じゃなくて明らかに歪曲です。そしてその上、その歪曲『ダーティー・オールド・タウン』をアメリカン・マウンテンミュージックのバンジョー弾きが歌ったらこんなことになるのではないかとやってみたのが私の『ダーティー・オールド・タウン』だと思っているわけです。
最近テレビで、演歌を歌ってるヒップホップな黒人のニイちゃんを見たんですけど、あの人は演歌を誤解してますね。でも、その正々堂々の誤解の仕方がカッコいいと思うんですよねぇ。
でね、他国語の歌に関してはもっとみんなが誤解してしまって、その人その人の、たとえば『ダーティー・オールド・タウン』を創ってしまえば面白いし、それは“よく出来た歌(原曲)”の存在として意義のあることではないかと思うんですよ。

で、もっと言えば、日本語の歌でも誤解してもかまわないんじゃないかと・・・。

亡くなった高田渡さんが「誤解される歌がホントはいい歌なんだよ。ひとつにしかとれない歌なんてつまんないじゃない」っておっしゃってましたね。「高田さんので一番誤解された歌は何ですか?」と問われて「『自衛隊に入ろう』だね」といたずらっぽく笑ってました。
高田渡さんが創った『酒が飲みたい夜は』という曲があります。詞は石原吉郎さんの詩でありますね。この石原さんの詩はとても深淵な雰囲気があるんですが、これをワタクシ、疑ってしまったんですよ。ひょっとして石原さんは、ただ単に「酒が飲みたい」ということを言いたいがために、酒を飲むための口実に、これだけ素敵な詩を創ってしまったのではないかとね。いやいや、ワタシの考えは違うと思いますよ、外れていると思いますよ、でもね、もしもそうだったら面白いのではないかと図ってしまったのですよ。
そして、『酒が飲みたい夜は』をもとにして、「寝る前に饅頭を食うための口実」だけの歌が出来ないだろうかとやってみたのが『饅頭が食いたい夜は』であります。

「誤解」はトラブルの元であるから無いにこしたことはないと捉えられていますが、トラブルにはつながらずに新しい何かを生み出す誤解もあるのではないかと思ったりもするんですよ。
落語の『蒟蒻問答』は、住職になりすましたコンニャク屋が旅の僧と禅問答をするという噺です。旅の僧はコンニャク屋のオヤジが身振りで返す答を次々に誤解して、オヤジを偉大な禅僧だと思い込んでしまいます。これは、誤解によって旅の僧の内にある“偉大な禅僧”が引き出されたともいえるわけですよ。
ですからね、場合によっては、「誤解」は私たちの内にある何か大事なものを引き出してくる契機となることもあるのではないかと思ったりもするんですよ。


オールド・デビル・タイム掲載記事一覧
もうひとつのオールド・デビル、[ランタイム]

| | Comments (0)

«お粗末ながらの新企画