所在について
これを読んでくれている方たちは、たぶんほとんどが日本人でありましょう。
「日本人」という国籍があって、「なんたら県民」という所属があって、「なんたら株式会社」の社員だったり「なんたら業界」の者という身分があって、「なんたら家」の家族であったりすることで、私たちは平穏を得ているはずですが、・・・“いや、でもなぁ”・・・と思ったりすることってないですか?
自らが寄って立つところに対して“不確かさ”を感じた事ってないでしょうか?
さて前回の最後に書いたように、どうして今このときに「フォーク」なのかっていうことですが、それにはまず、「フォーク」とはなんだろか?っていうのから始めなければなりますまい。
「フォーク」=「Folk」=「民」。
「民」とは、君主制の元では「支配下にある人々」、また一神教の元では「従属する人々」という意味合いがあり、民主主義が本流となった現代社会においては「国家を構成する人々」という意味になっています。
支配されていたり従属していたりしていた民は、その「生」のすべてが君主や教会によって定められていたかといえばそうではなかったはずで、支配や従属の下にあったのは“可変”といえる部分であったのでしょう。“不変”である部分、民の生活や人生に絡む出来事や民の集合体から形成されてゆく文化といったものは何者かによって強制されてすべてが出来上がってしまうものではありませんからね。言語・方言、民族音楽・舞踏、伝承・伝説などはその生活基盤である土地の気候風土といったものによるところが大きかったはずです。以前の記事『ウブスナの波動』で書いていたように、「民」とはウブスナによって生み出されていた存在ですから。
で、現在、民主主義は当たり前のようになっていて、そうでない体制の国に対しては“人道上どうのこうの・・・”というような非難がなされたりしていますが、人間の歴史において民主主義が政治形態の主流となったのはほんの最近のことです。それも自然にそうなったのではなく、多くの血が流れた末に勝ち取られたものですね。
民主主義っていうのは字の如く「民が主」となる体制のことであって、人間の自由と平等を尊重する立場が取られている社会のことです。「民が主」となって自由を尊重される体制ならば、その民のひとりひとりがその自由を持っているべきであって、すなわち民は“自らの理由”の元に行動できなければならないわけです。
すなわち、民が民でなければ本当の意味での民主主義は機能しないのですよ。
ならば、「民が民である」とはどういうことなのか、どの様であることがすなわち「民が民である」ということなのかっていう、そこですよ。
ずいぶん昔の歌ですけども、『明日なき世界(Eve of Destruction)』っていうのがありました。これは1965年に全米ナンバーワンヒットにまでなった歌で、日本では高石ともやが訳して歌ってたのが有名です。そのコーラス部分は
♪ でもよぉ何度でも何度でも オイラに言ってくれよ
♪ 世界が破滅の前夜だなんて ウソだろぉぉぉ
今になってわかるんですが、・・・ウソだったんですよ。
世界は破滅なんてしなかった。
全地球人が危機意識を持って平和を望んだから破滅しなかったのではなく、そうではなくて、破滅の前夜でさえなかったのではないかと思うんですよ。
世界が破滅することでもっとも困るのは誰かっていうと、“世界を手玉に取っている人たち”、あるいはそれを狙っている人たちですよ。その人たちは政治や軍事を掌握しているわけですから、彼らは世界を破滅させることは出来るんだけれども、そんなことは絶対にしないのですよ。自分たちが大損するだけだから。
それじゃ彼らは何故そんなプロパガンダを流したのか?
彼らは、そうすることによって「手玉」を得ることが出来たからでしょう。
「世界を手玉にとる」とはどういうことか、手玉とはいったい何の事かといえば、それは人間のことです。世界を手玉にとるということは、すなわち人々を思いのままに動かすということです。
『明日なき世界』は強烈なプロテストソングだということになっていて、実際に発表直後には放送禁止になりかけたほどなんですけども、しかし、それでさえも“彼ら”にとっては思う壺だったのではないかと思うんですよ。現状の生活を守ろうとしている人々は常に“危機”に対して敏感で、“危機”をチラつかせれば振り向かせることが出来るんですね。そして振り向いた人々に“何事か”を告げるというのが古今を通じた政治の方法論です。告げられる“何事か”の最たるものは「敵はあいつらだ」です。この方法でこれまでにどれほどの戦争が起こり、そして手玉に取られたどれほどの人々が死んでいったことか。
そのやり方は政治でないところでも使われます。現在のテレビ番組はとにかく危機感を煽ります。経済危機だの環境危機だの健康危機だの、そして視聴者を振り向かせます。テレビが政治と異なる点は、振り向かせて視聴率を取ったあとは放ったらかしということですね。
全世界のほとんどすべての人々はなにかしらの体制に組み込まれていてその暮らしはその政治体制の下にあるのですが、暮らしている人々の「民」である部分が寄って立つところはその体制である必要はないんですよ。すなわち、日本人の暮らしは日本国の政治体制の下にありはしますが、日本人それぞれの個々人の「民」である部分が寄って立つところは日本の体制の下でなくてもいいはずで、自らの理由の下でもかまわないんですよ。というより、そうであるべきだと、私は思っているんです。
「寄らば大樹」というのはトホホなまでに良く出来たたとえです。体制の中で多数決的な損得勘定に気を使い、マスコミの煽りに動かされたり、時にはそれに乗じたりしていれば楽であることは確かですね。しかし、そんなとき、私がそのような楽をしているときにフッと感じるのは、「私の『民』はどこにいるのだろうか」という不安感です。ひいては、私は「自らの理由」を持っているのだろうかという、自身に対する疑問です。
先に民主主義がどうこうという話を書きましたが、実際のところ私は政治について語る気はさらさらありません。私の現在の関心事は、私に於いて「民が民である(私がフォークである)」ことや「自らの理由を持つ」ことはどのようにすれば実現できるのだろうかというそれなんですよ。
私は日本というウブスナから生まれた産子(ウブコ)であり続けたいし、支配や従属の下にはない真の「民」であり続けたいからです。
いわば、私の“所在”を明確にしたいということですね。
んなわけで、次回からは
民が民としてあったからこそ生まれてきた様々な表現としての民族音楽に対するアプローチや、日本人という基盤の上にあってこそ感じられる音楽の“国境”、それらに言及することが出来ればと思っておりますが・・・・・今回の話って、意味わかりますかぁ・・・。
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